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ピアニストからCPA、MBA取得へ。

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株式会社アゴーラ・ホスピタリティーズ
代表取締役社長/Representative Director&CEO 浅生 亜也 氏

英国国立ウェールズ大学経営学修士MBA、南カリフォルニア大学ソーントン・スクール・オブ・ミュージック音楽学部ピアノ学科卒。シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルを経て、デラウェア州・米国公認会計士資格(CPA)を取得、監査法人トーマツ、プライスウォーターハウスクーパースBPOジャパン、スペースデザイン、イシン・ホテルズ・グループなどを経て、2007年9月に株式会社アゴーラ・ホスピタリティーズを設立し、代表取締役社長へ就任(現任)。

引っ込み思案な私が経営するなんて。

須原伸太郎(以下須原):まずは幼少期のお話からお伺いしたいのですが、どんなお子さんでしたか?

浅生亜也氏(以下浅生氏):もう引っ込み思案で、虚弱体質で、人前に出るのが大嫌いな子どもでした。その頃の私を知る人には、経営をしているなんて信じてもらえません。

須原:変わられたのは、海外生活の影響でしょうか?

浅生氏:9歳で言葉もわからないブラジルへ移り住み、17歳で単身アメリカへ留学に行くと決めてから20歳代はアメリカ生活。多少は影響していると思います。

須原:では、異文化に触れ、海外でリーダーシップを発揮されていったと?

浅生氏:いいえ。向こうでもなるべく人目につかないように隠れていました。本当に社会に出て、場数を踏んで、経営を始めて少しずつ慣れて変わっていったのだと思います。

須原:意外です。浅生さんが一時期、一緒に仕事をされていた江副浩正さん(故:リクルート創業者)は、リーダーシップは99%後天的な努力だと本の中でおっしゃっていますが、まさにそれですね。

浅生氏:はい。講演会のときはいつも、リーダーは誰でもなれるという話をしていますが、そのもとになっているのは江副さんから学んだ強い信念です。こういう会社を、事業を、チームをつくろうという想いがあれば、ついて来てくれる人がいて、その人はリーダーになっていく。強い信念があれば私にもできると思いましたが、まさかこの私が会社をつくるなんて誰が想像したでしょうか。

須原:大学はピアノ科のご出身で、人前で演奏する機会もあったと思います。

浅生氏:それがものすごく嫌いで。人前で演奏できるのであれば、たぶん今もピアニストをやっています。私の父は芸術、母は音楽というリベラルアーツにとても関心の高い両親で、日本では体験できないような恵まれた環境を与えてくれましたが、他に選択肢がない状態でピアニストへのレールを歩んできたという側面もあるのです。

須原:ご自身が望まれたことなのではないと?

浅生氏:はい、いつか逃げ出そうと思っていました。いつの日か私も本当にやりたいことを見つけて、それができる場所へ飛び出していきたいと思っていました。単身留学を決意したのもそういった理由が含まれています。それで、アメリカでプロとしてピアニストをしながら、二足のわらじでアルバイトをしたのが、たまたまロスのホテルでした。

たまたまホテルのアルバイト。

須原:ピアニストとしてのアルバイトですかp06_07_01

浅生氏:いいえ、フロントです。日本語と英語が話せる人という求人で、行ってみたらホテルのフロントでした。

須原:それがホテルとの出会い。

浅生氏:はい。私を面接してくれた女性があまりにもかっこよくて。入口まで私をエスコートしてくださり、途中、さりげなく床のゴミを拾って、スーツのポケットにスっと入れた、そのホテルマンの姿に心をぐっと奪われました。今思えば、それはまさに日本のおもてなしに通ずる行動でした。

須原:そこからホテルへのめり込んで行かれた。

浅生氏:はい。しかし一方でピアノも続けていまして、自らコンサートを企画して、宣伝して、スポンサーを探すといった活動をしていました。後になって、この一連の活動を「マーケティング」というのだということをはじめて知り、興味がつのりホテルのマーケティング部門へ異動しました。そして、故郷の日本へ。日本の宿泊事業をやるために、同じ系列のホテルのマーケティング担当として20年ぶりに日本に帰ってきたのです。

須原:ホテルで数年勤務され、その後に監査法人やコンサル業界へとキャリアステップされますが、これはどのような理由ですか?

浅生氏:その頃、私はホテルの現場のことしか知りません。このままでは私のキャリアは頭打ちになると思いました。それで、世の中の動きや経済を知るために経理の勉強をしようとUS-CPAを取得して、監査法人へ行きました。その後に、コンサルティング会社で業務プロセスの一元化に携わりました。実は、このときの考え方がアゴーラの戦略の原点になっています。そして更に、江副さんが経営するスペースデザインへ転職をしました。

ピアニストからCPA、MBA取得へ。

浅生氏:江副さんは当時、p04_05_03_03サービスアパートメント事業を手掛けていて、単なる不動産ではなく、ホスピタリティやホテルライクな要素を加えようということで、知人の紹介を受けて、私に声が掛かりました。私も少し念願のホテル復帰に近づけると思いました。

須原:ところが、江副さんは強烈な個性の持ち主だった。

浅生氏:はい、私の中ではもう大嫌いなオッサンです(笑)。要求水準が高いだけでなく、必ず仕事をぶち壊しに来ます。ただ、江副さんのまわりの人が強くなっていくのは、そこから必ず這い上がるからなんです。これほどの凄い人材育成方法はありません。これが彼の計算だとしたら、もの凄い人だと思います。

須原:勤務されたのはリクルート事件の裁判中の頃ですか?

浅生氏:はい。判決の最後の頃です。精神的に辛かったと思います。当時、いつも言っていったのは経営者は孤独だと。トップに立つと急に今まで信頼していた人が違うように見えてくるときがありますよね。それを江副さんは孤独と表現されていたのだと今なら思います。

須原:では、江副さんがきっかけで起業された?

浅生氏:いいえ。その後、イシン・ホテルズ・グループへ移り、ホテル業界へ復帰します。ちょうどホテル業界へ外資が入ってきて、日本のホテルが売買され始めた時期です。当時は金融や不動産市況ばかりに目がいき、観光や宿泊という視点はまったくありませんでした。私が日本に戻ったのは、日本の精神性や風景、風土、食事などのカルチャーに憧れを抱いて、日本で宿泊事業に携わろうと思ったからです。私は不動産や金融業界にいたかったわけではありません。だから、信念を貫くためにもう一度勉強し直そうとビジネススクールに戻りました。

須原:そして、MBAを取得されて、満を持して会社を立ち上げられた?

浅生氏:じっくりと事業プランを練ってからと思っていましたが、早々に大学の先輩から野尻湖のホテルオーナーを手伝ってほしいという依頼が来ました。ニーズにかられて会社をつくったというのが本音です。

須原:それがアゴーラ・ホスピタリティーズですね。一人で立ち上げられた。

浅生氏:はい。私は一人、業務支援のコンサルタントとして仕事を請け負い、リブランドを行い、オープンさせ、チームをつくり、従業員の皆さんと一緒に汗を流しました。あるときオーナーさんからこのままホテル事業を引き受けてくれないかと相談されました。受けてくれない場合は廃業しようと。いやいや、せっかくここまで来たのだから、続くところまで頑張ろうと私は決断し、そのまま従業員20名を引き受けたのです。

須原:最近、起業する方の中には経営を勉強し過ぎて、躊躇してしまう人も多いですよね。浅生さんは逆にその場その場で全部必要にかられてやってしまう。

浅生氏:今でもそうなのですが、戦略とか仕組みよりも、まず稼動する実業があって、それを支えるために仕組みがあると考えています。大事なのは、社員みんなの想いや会社や事業の方向性を最初にしっかり詰めることです。野尻湖ホテルを最初に引き受けた当時から、今日現在のビジョン、ミッション、そしてバリューもまったく同じです。だからこそ、これまでチームとしてまっすぐ来れたと思っています。

難破船の船長として荒波に揉まれ。

浅生氏:一方で、経営は難破船状態でした。崖っぷちなんて、何度歩いたかわかりません。最初の4年間は本当にとんでもなく、資金調達は八方塞がりでした。一度潰れた宿泊事業にお金を貸せるわけもない。でも、こういう試練を乗り切ったからこそ、明日の1円をどうやって調達するのか、今日の1円をどう稼ぐのか、どうやってセーブするのかという話を常にみんなでしていました。だから、当時からのメンバーはものすごく心が強いです。

須原:”荒海でなければ良い船乗りは育たない”と。では、当時掲げたビジョンに対して、今は何合目あたりまで来ましたか?

浅生氏:3合目くらいでしょうか。よくここまでついて来てくれたと思います。当時はインバウンド(訪日外国人旅行者)がほとんどいない状況でしたが、私は絶対に来ると確信していたのです。震災後も復興するのは観光しかない。そう考え、突っ走ってきました。

須原:海外から帰ってきた浅生さんから見るとそう見えたのですね。

浅生氏:豊かな文化と観光資源を持っているのが日本です。言い方を変えれば、それはお金に変えることができる。

須原:インバウンドが2,000万人を超えました。まさにこれからですね。

浅生氏:はい。日本には5万軒以上の宿があり、そのひとつひとつに観光資源や特徴があります。きちんと宿が持つ特徴を伝えて人に来ていただければ、どこも生き続けられるはずです。その努力をしなければ、宿も地域も死んでしまう。世界の観光客人口が無限大にあるように、日本の魅力もまた無限大にある。そこのマッチングを行うのが私たちです。

家族よりも絆の強い仲間。

須原:私は個人的にリーダーシップをp04_05_02_03体系立てて研究したいと考えてます。これまでも様々な社長さまからうかがっていますが、浅生流のリーダーシップとはどのようなものですか?

浅生氏:私が意識しているのはコーチングスタイルのリーダーシップです。この方法でやっていかないと会社がひとつになって前に進めなかったという理由からです。もうひとつの理由は、私自身が常に大きめの靴を履いて、それに合うように経験の場数を踏み、キャリアステップをしてきた経緯があるから。社員たちにも高いところを目指すのを恐れないで、失敗していいから早く大きな靴を履いてほしいと伝えています。家族的なチームワークで一生懸命サポートしながら、時に手を引き、背中を押し、靴ひもを結び直し、前へ進ませてあげる。自分でできるように促していくために、教育と承認を心がけています。

須原:浅生さん自らああしろ、こうしろとは言わない。

浅生氏:たとえ言ったとしてもアクションまでにすごく時間がかかる人もいます。私は他の人からよく待つね、よく我慢するねと言われますが、本人が気づいて自分で動き出すまで待ってあげます。最終的な目的は自分で考え歩けるようにしてあげたい。その一心ですので。

須原:待てない私には耳が痛いお話です。経営は長期だけでなく、短期スパンでも結果を求められますよね。そのときのジレンマはありませんか。

浅生氏:どっちが最終的に早いか考えなくてはいけないと思います。やっぱり私が言ってしまうとみんな考えなくなるし、動かなくなる。そうするとリーダーが抜けた場合、崩れてしまう。やはりみんなが勝手に動けるようにしないとダメです。現場ではみんなに、私には向かずお客さまを見るようにと伝えています。

須原:浅生さんのFacebookを拝見していると、心情を素直に吐露されている書き込みを目にします。

浅生氏:私は新しくリーダーになる人たちに必ず言っていますが、ぶつかったりしたときは、苦しかったり孤独を感じたりすると思います。それはチームにぶちまけたらいい。間違ったことをしたら、謝ったらいいと。実際、とあるチームで関係がぎくしゃくしていたことがありました。私はそのリーダーにみんなの前で謝ったほうがいいとアドバイスをしました。でも、彼はなかなか受け入れることができない。2か月くらい待ちました。出張先で、私のパソコンにメールが入りました。彼からです。そこには、”みんなを集めて頭を下げた。ぶつかっていたメンバーからも謝罪があった”とありました。以来、チームがよく話し合うようになったそうです。思わず感動して、私も涙を流しました。

須原:いいお話ですね。それでは最後に、企業経営者の皆さまへメッセージをお願いできますか?

浅生氏:こんな難破船の船長がおこがましいのですが、やっぱり社員のことをどれだけ考えられるかでしょうか。今の私たちは家族よりも心や感情のつながりが強い仲間になれました。だから、ここまで来れたのだと思います。立ち上げメンバーは今、みんな別々の宿で仕事をしていますが、たぶんこんなことを考えているだろうなとお互いわかっています。家族だからすごく喧嘩もしますが、次の朝になれば、おはようと始まる。だから絶対的な喧嘩にはなりません。実の家族より強い家族ですからね。

須原:本日はありがとうございました。

編集後記

海外育ち、ピアニストからコンサルタント、そして経営者へ。浅生さんの経歴は、華やかな輝きに満ちています。でも、幼少期は、引っ込み思案で人前に出ることが苦手だった。リクルート江副さんは、「経営の才は、後天的に取得するものである。それも99%意欲と努力の産物である。」と言い切られていますが、浅生さんも、華麗なキャリアからは想像できない見えない場所(心の内面)で大変な努力をされて、経営者になられた。そんな浅生さんが、江副さんに師事されたことがあるのは、偶然ではない気がします。観光立国化の先頭を走るホテル&ホスピタリティ業界において、どこよりも日本らしさの追及に貪欲なアゴーラ・ホスピタリティーズ。これからが益々楽しみです。
執筆者

須原 伸太郎 氏

株式会社エスネットワークス 代表取締役社長・公認会計士・税理士 須原伸太郎 氏

一橋大学経済学部卒業。監査法人トーマツ入所後、株式会社マッキャンエリクソンにて企業の戦略立案及びマーケティングプランニングに従事。 1999年株式会社エスネットワークスを共同設立、同社代表取締役副社長就任。 2011年4月、同社代表取締役社長に就任。